レポート

飯舘村の牛飼いたち − 春の生産者開拓レポート

東北食べる通信で、将来特集する生産者を見つける旅のことを「生産者開拓」と呼んでいます。生産者開拓のために今日も東北を走り回ります。今回は福島原発事故により、土を汚染され、避難を余儀なくされた飯舘村の和牛生産農家・山田豊さんを訪ねました。

成影沙紀文=成影沙紀写真=山下雄登|2018年03月10日

飯舘村の牛飼い

「放射能出させて欲しいんです」。
山田豊さん(35)は目を真っ赤にさせてこの一言を漏らした。福島県飯舘村は福島第一原発から40km以上離れた場所に位置する。原発20km圏内地域は放射性物質の影響がある、と事故後すぐに避難指示が出されたのに対し、飯舘村はその距離のせいで避難指示が出たのは4月になってからだった。風向きによって局所的に高レベルの汚染を受けたのだった。豊さんは飯舘村で和牛の生産を行う農家だった。妊娠中の妻を案じ、震災後は5年間京都に避難し、その後福島に帰ってきた。父・猛史さんは10頭の牛を連れて逃げ、飯舘村まで片道1時間ほどの飯野町で和牛の飼育を続けた。

2017年3月31日、震災から6年が過ぎ、ようやく飯舘村は避難指示が解除された。山田さん親子は飯館の地で和牛生産を再開するために、昨年から飯館での放牧実験を始めた。新しい自宅も牛舎も飯舘村に建設中だ。夏になり放牧を始めると、ほとんど毎日飯館に通うという。そんな豊さんの思いを聞くべく参加したイベント「原発事故から7年。飯舘村から届ける若者たちの今」で豊さんが語った想い。

汚されたふるさと

「県の営農再開の説明会に行くと、『放射能出すな、放射能出すな、放射能出すな、埃と木の葉は牛に食わせるな、埃と木の葉は牛に食わせるな、埃と木の葉は牛に食わせるな・・・畜産頑張りましょう!』という話になるんです。県職員さんはずっとこの7年間、放射線を出さないようにと頑張って来られました。だからわかるんですが・・・でも、現場では完全に防ぐことはできないんです」。
放射性物質で汚染された農地は汚染された表面の土壌を剥ぎ取り“除染”された。しかし、除染は農地に限定されており、畔や山、水路は除染の対象外なのだ。どんなに除染をしても、木の葉は飛んでくるし、水は溢れる。
「全国の人には申し訳ない。一緒に農業を頑張ってる福島の農家の友達にも申し訳ない。でも、出たことがわかるということが大事だし、出てもサポートするっていうことが必要なんじゃないでしょうか。そうしないと挑戦する人も、飯館に戻る人もいない。だから、放射能出させて欲しいんです」。

原発事故でふるさとが汚染されたと知った時、原発がないと回らない社会に居ること自体が嫌になり、山にこもりたいと本気で考えることもあったという。幼い頃、学校から帰りながらドジョウの罠を仕掛けたり、稲刈りの時に出るイノハナというキノコをとって歩いたり・・・そういうことがもうできない、そういうことを自分の子どもにさせてやれない、故郷や夢を一瞬で奪われてしまった。
「食べものなんか作れない、作っちゃいけない土地になってしまった!」そう言ってわんわん泣いた。

いま、想うこと

あれから7年。
「セシウムはあとは減っていくだけ。300年後にはなくなる計算になっている。その時に荒れ放題では情けない。今日まで自分の親たちが繋いできてくれたバトンを少しでも軽くして次の世代に渡したい」と豊さんは話していた。300年後のことを考え、今を生きる35歳。すごいなと思った。

豊さんと同じく飯舘村で和牛生産をしており、現在は北海道で和牛繁殖を続けながら、飯館に戻りたいと考えている菅野義樹さん(40)は語った。「飯舘村はこんなに原発から離れてるのに汚染されました。これは神様が仕組んだ試練なのではないかと思います。飯舘村にはそれを乗り越える力があるから、こんな試練を与えられたのではないかと」。

誰が抱えるべき問題か

原発で故郷を汚染された人々の想いはフクザツだと頭では理解していたが、私が想像していたよりはるかに彼らの想いはフクザツで、考えは深くて、一周も二周も回った者にしか発せない言葉ばかりだった。前を向いて歩む彼らの姿は素晴らしい。素晴らしいんだけど、飯館村の人だけがこの問題と向き合い続けなければいけないのか、神様がくれた試練だと思わなければいけないのだろうか。神様がくれた試練ではなくて、私たち一人一人が無関心を決め込み、押し付けてきた問題に過ぎない。

何年かかるかわからないが、東北食べる通信で豊さんの牛肉を届けられるその日まで、彼らの姿を追いたい。

成影沙紀

成影沙紀

京都府宇治市出身。大学時代に東北食べる通信・編集長の高橋に出会い、彼が語る農家漁師の姿に惚れ込み、そのまま購読。1年の東京での武者修行を終え、夢だった東北食べる通信のスタッフになる。新しい生産者に会いに行く特攻隊長。